万葉歌 「な」いさな取り 命の循環

2019年6月18日

いさなとり 海や死にする 山や死にする 

死ぬれこそ 海は潮干て 山は枯れすれ

 (巻十六・三八五二 作者未詳)

「鯨を取る海は死ぬだろうか。山は死ぬのだろうか。

死ぬからこそ海は潮の引くことがあり、山は枯れるのだ」

まるで無垢な子供の問いかけに答えようとする大人との対話の場面。

あるいは、はっと何かに気づかされ、ふと自問自答が始まったかのような、大自然を前にしての独り言。

予測不能の大災害に見舞われ、時には海も干上がり、山の木々がなぎ倒されたり、枯れ果てることもある、そんな過酷な部分も抱えつつ、幾度もくりかえしながら

大自然は息づいています。

同じように家族や親族、自分たちの属する地域、組織の中にも生死や別離、そしてまた、誕生や出会いという再生があり、常に移り変わります。

私たちもその一部に他なりません。

自然の中に生かされるということは時には厳しさに畏怖の念を抱きながらも

感謝や親しみの素直で大らかなこころで接してきたといえるのではないでしょうか。

「な」は食物に関係ある音

いさなとはのことで「勇魚」と書きます

勇魚取りは捕鯨を意味し、歴史も古く約8000年前縄文前期の遺跡から、使用されたとみられる石器が発見されています。

そして万葉集には「勇魚取り」は海や浜にかかる枕詞として多く残されています。

岩魚(イワナ)と同じように

「な」は魚の意味で古代からマナとも言われていました。

「まな板」としてこの言葉が今も残っていますね。

「魚庭」と書いて「なにわ」とも読むそうです。

大阪湾も豊富な漁場であったことが偲ばれます。

また、菜っ葉の「な」で、

奈良の奈には野生のりんごのような果実の意味もあるそうですから

「な」には共通して食物のことを表す音でもあると言えるようです。

「成る」成長させる

そして、「成(な)る」という動詞からも

この身体を成り立たせること=成長、育成させ、生命を維持させるもの

として食物の意味の「な」にも関連していると推測できます。

この動植物の生命(な)を、

毎日せっせといただいて

私たちは生命・身体が(成りたっている)生かされているということが言えるでしょう。

「食事=食べること」にはまた、神事に際して神饌や直会(なおらい)として受け継がれ

神聖なものとして今日まで扱われています。

わが国では鯨漁を神事とし、船を連ね、儀式にのっとり行なわれてきた歴史もあります。

雄大な海と勇魚に、この歌の作者は神聖さを見い出し、対峙するように

今一度問いかけ直したのもしれません。

生命の循環

海から生まれたのでしょうか、生命の起源となる微生物から

植物、小動物から人間

そしてクジラまで

大自然の中に生きることそのもが食物連鎖や生命の循環につながっていることを思わせられる、壮大さを感じます。